Teilen

休題 とある秘録

last update Veröffentlichungsdatum: 07.09.2026 10:41:12

―――休題 とある秘録―――

言葉なんて何とでも言える、というのがセシルの考えだ。恋愛でも友情でも相手に好かれたかったら人は偽りを平気で口にする。

(身体で感じている事だけが、一番信じられる事だよ)セシルはそう確信していた。初めてを経験したのは十二になるか、ならないかという歳だった。余りはっきりとは憶えていない。相手の顔も名前も曖昧だが男だった事だけは憶えていた。「可愛い」「好き」と言葉で百回聞くよりも、一度関係を持つ方が相手は自分に関心があるとセシルは信じられた。

(いや、もしかしたら彼奴とのが最初だったの?ファックまではしてないけど)興奮して血走った眼、荒い息遣い、赤黒い隆起……は最初と呼ぶべきだろうか?もうよくわからない。色んな人間と何度も経験をしたせいか、其の違いが分からなくなったのかもしれない。(だって仕方がない。僕はこんなに美しいんだから)セシルはそう諦観する。そう、自分は美しいのだ。美しいから男も女も寄ってくるし、醜いものは美しいものを汚そうとしたがる。彼奴が汚れているからといって、自分は汚れた訳ではない。あれは美しいが故に起きてしまった事だ。可哀想なママは優しいから彼奴が汚れていることに気が付かなかった。セシルはそう思っていた。(僕は誰より美しい。多分女の子達より美しいんじゃない?)しかし、其の考えは必ずしも当たりはしないことをセシルは学んだ。

(あんなに綺麗な子が此の世に居るなんて)

セシルにとっては衝撃的な存在だった。イレヱヌ・スチュワアトという其の少女は目映い耀で包まれているのかと錯覚する程の美しさだった。白磁のような肌に精巧細工の宝飾品のような瞳、朝露に濡れた薔薇の蕾を思わせる唇に百合のような手。絵画に描かれた天使や女神が其のまま人となって存在するかのようだった。眼は何処か虚ろで何も写していないかのようだ。(あの子は多分僕と同じ子だ)圧倒的なイレヱヌの存在にそう直感する。仲良くなりたいとセシルは思った。他人に此れ程強い感情を抱くのは初めての事だった。

授業を何時も通りさぼって退屈凌ぎに図書館か映画館へ行こうかと廊下を移動する途中にバレエの授業風景を見た。セシルはバレエは嫌いな訳ではないが、踊りたいとは思わない。理由は簡単で自分はトウシュウズもレオタアドやチュチュも身に付けられない。パートは男役しか踊れないと知ったからだ。ジュリエット、イレヱヌが今度の学院の公演“白鳥の湖”のオディール役のテストを受けていた。ジュリエットのオディールは技術だけでなく解釈が完璧其の物だった。(たぶんジュリエットが主役をやるね)セシルはそう確信したが、次のイレヱヌに圧倒される。技術はジュリエットには及ばないところもあるが、その演技に圧倒される。肉体はまだ十代の少女だというのにその眼差しと微笑みは人を魂ごと絡めとりそうなほど蠱惑的で妖艶だ。ジークフリート役のレナートも圧倒されて眼が離せなくなっている。(ああ、あの子はやっぱり僕と同じ子だ)身体が震え総毛立った。此れ程他人に強い関心を持つのはセシルにとって初めての事だった。

図書館で何時もの無気力で無関心な様をかなぐり捨て顔を紅潮させてシリルを罵倒する姿を見て「随分悪いお言葉使っちゃったね?」と話し掛ける。(イレヱヌはやっぱり僕と似てる子だ)と思い背筋をぞくぞくと何かが這い上がる。

イレヱヌは話していて面白い子だった。芸術、文学、映画、ファッションに対する造詣が深く此方の興味をひく話をするのも上手かった。セシルは歴史には全く興味が持てないものの、イレヱヌの仏蘭西の歴史的に有名な女性達についての発表はとても面白かった。イレヱヌが先生だったら、僕はどの授業もさぼらなくなりそうだ、とセシルは思った。

授業をさぼり恋人の部屋で上級生達を交えて四人で戯れた。人の体温に包まれるのは堪らなく心地良いし、安心する。他人が自分の美しさと身体に夢中になる姿を見るのは自分の自尊心と優越感を充分に満たしてくれた。其れなのに最近は何故か恋人と二人だけで過ごすのは物足りなくなってしまった。何時もなら恋人と二人で過ごして相手の体温や吐息を感じるだけでも欲望が滴りそうになるというのにどうしたのだろう。『変態肛門性交ソドミーオカマ野郎が!』頭の中でいつか言われたシリルの罵倒が頭を過る。(僕が変態なら世の中皆そうじゃない?)心の中でそう言い返す。誰だって気持ちの良いことは好きだし人と過ごす事は楽しいし、退屈すれば刺激を求める。人間なんて一皮剥けば皆そんなものだというのがセシルの考えだった。外部から与えられる刺激に身を委ねる。ただただ心地良い感覚だけが与えられるのは堪らなく良かった。

(イレヱヌは、これをする時はどんな顔なのだろう)何故か脈絡もなくふとそんな考えが頭を過る。唐突に浮かんだ其の考えに何故か焦った。一体こんな時に何故こんなことを考えるのか自分でも分からない。そしてセシルは気が付く。(イレヱヌは、何時か誰かとファックする)その事に気が付いて一気に血の気が引いた。今は恋愛には興味が無い、と言っていたがボオイフレンドを作るのは時間の問題だ。其の時どんな声を聴かせる?どんな顔を見せる?其れを考えるだけで冷や汗が止まらない。「セシル、集中しろよ」上級生の一人がセシルを咎めた。しかしもう集中する事が出来ない。何時もなら夢中になる此の時間が長く苦痛に感じられた。

何かがおかしい、と、セシルは思った。今までは恋人が最優先だった筈が何時しかイレヱヌ中心の生活になった。圧倒的にイレヱヌと過ごす時間が長いし恋人よりもイレヱヌの事を考える時間が長い。そのせいか最近は恋人を作っても今までよりも破局が早く訪れる。酷い時は一月も持たなくなった。「セシルは自分よりも好きな人がいる」ボオイフレンド、ガアルフレンドに関わらず概ねその理由で振られた。気分を変えようと“エマニエル夫人”を読んだ。前衛出版社エリック・ロスフェルドが会員向けに匿名で出版したものだが、セシルは最近は此れに夢中になっていた。自分なら恋人とどの様な行為に耽るだろう…と甘美な想像をしている筈だったのだが、いつの間にかイレヱヌならどの様な反応を示すのだろう、と想像をしていた。国際線ファーストクラスで行為に耽る描写ではイレヱヌはどの様な反応をするだろう、と空想した。金髪で華奢な同級生のイレヱヌと十九歳の豊かで形の良い乳房を持ち、背中を隠すほど長い黒髪のエロティックな雰囲気のエマニエル夫人では似ても似つかないというのに。気が付いたらエマニエル夫人ではなく、イレヱヌの姿でイメエジしてしまった。自分の熱を慰め、ようやっと(僕はイレヱヌの事が好きだったのか)と、自覚をする。(何でこんなに経ってから気付くんだろう)我ながら己の鈍感さに呆れてしまった。

幸いイレヱヌはデエトはしても誰とも恋人になる気にはなれない様だった。其れでもデエトはまたするらしい。あんなに興味が無いと言っていたのに、と思い訊いてみると「セシルを見てて少しは興味が湧いたのかもね」という返答が返ってくる。後頭部を殴られた様な衝撃だった。まさか自分が撒いた種だとは思わなかった。そしてその後ボオイフレンドとの関係に飽きてきたことを話すと「あたし達、あんまり一緒に居すぎない方が良いのかも」と言われてしまう。イレヱヌにとって自分はそんな程度の存在なのだろうか、と自分の撒いた種にも関わらずセシルは身勝手にも酷く傷付いた。(僕はもうイレヱヌが一番好きなのに、イレヱヌはそうではないの?)自分と同じくらいイレヱヌが自分を好きになってくれない、そう感じる事がこんなに哀しくなる事だとは知らなかった。

結局ボオイフレンドとは破局した。しかしそんな事はどうでも良かった。イレヱヌが自分を“仲の良い友達”としか認識してくれないことの方が問題だ。(どうして僕の気持ちに気付いてくれないの?)焦れったい気持ちになり接吻キスをする。此れで厭でも此方を意識してくれる筈だ、とセシルは思う。イレヱヌの頬はシルクよりもすべらかで唇は薔薇の花びらのように柔らかい。イレヱヌの顔が真っ赤になるのを見てセシルは笑った。その後イレヱヌはひたすら戸惑っているようだった。今まで友達としか認識されていなかったのだから仕方がない。でも、其れで良い。此れでイレヱヌは他の男子とデエトに行くことは無くなる。その間に此方を好きになってもらったら良いだけだ、とセシルは特に問題にも思わなかった。人によっては非難されてしまう考えかもしれない。けれど世間がどう言うかなんてどうだって良い。(“恋と戦争には、全ての戦術が許される”って言うじゃない?他に敵がいるのに手段なんて選んでられないよ)

「ねえフランソワーズ、僕イレヱヌと恋人になったよ」セシルはサガンとドライブの最中にそう言った。「あの友達の?やっぱり好きだったんじゃない!」サガンは特徴的な機関銃のような早口で答える。前々からサガンにはイレヱヌとの仲を疑われていた。サガンは高らかに笑うと裸足で思い切りアクセルを踏む。サガンは自由を好む気質の一端として、足を靴という狭苦しいものから解放させることが好きだった。二年前に生死を彷徨う大事故を起こしたばかりだというのに相変わらずのスピード狂らしい。「友達だと思ってたけど、最近其れだけじゃ物足りないなって思ったの!」サガンの愛車ジャガー・XK140カブリオレの唸り声に負けないように声を張り上げながらセシルはそう答えた。「今を思い切り謳歌するのよセシル!」サガンも轟音に負けないように声を張り上げる。「“後悔”なんて暗いしださいし!」

春休みの旅の思い出は一生忘れない思い出になるだろう、とセシルは確信した。料理や風景も勿論感動的なものだったが、其れ以上に今まで見られなかったイレヱヌの顔を沢山見られた事に感動した。憧れのオリエント急行を前にはしゃぐイレヱヌの無邪気で可憐な姿に胸がときめいた。初めて身体を繋げた時には未経験の感覚に戸惑い顔を赤くする姿にセシルの身体は芯まで熱くなる。

少しずつ壺に入った高価な蜜を舐めとるように、丹念に味わっていった。一瞬で食らいつくすなど勿体無い。身体は限界を訴えても敢えて欲望のままに食らうのではなく自分を焦らしてイレヱヌという蜜を少しずつ味わい尽くしたかった。

(誰にも渡さない。渡したくない)胸の内で子供が叫ぶ。シリルになんか渡さない。ただ指を咥えて見てただけの奴になんか取られるつもりはない。(勿論、負けない自信も有るけどね)心中でセシルは笑った。自分が好きだと言って全く此方を意識しない子なんて男の子にも女の子にもいなかった。あんな小学生男子程度のアプロオチしか出来ない幼稚な奴に僕が負けるわけないという自信しかない。其れにイレヱヌは近寄りがたい、頑なな女の子に見られがちだが本当は繊細で受け身な流されやすい所もある、という年相応の女の子らしいところもある。自分がはっきりと今までのように分かりやすく愛情表現を示し続ければシリルの方に振り向く事はないだろう、と確信していた。(何処にも行かないでイレヱヌ)痛切な思いをイレヱヌの細胞一つ一つに染み渡らせるように触れていった。

「好きな人とこんなに綺麗な街に来られるってとっても幸せじゃない?」ヴェネツィアの美しい街並みを眺めながらイレヱヌに微笑みかけられ、セシルは泪が零れそうになる。

「うん」と同意することが精一杯だった。イレヱヌをそっと抱き締める。イレヱヌの体温と馨りが優しくセシルを愛撫する。

「僕、とっても幸せだよ」ようやっとそう答える。

自分はイレヱヌに愛されている。其れは勿論分かっている。しかし、セシルは其れだけでは物足りない。どうしてもイレヱヌに触れたいし触れられたい。イレヱヌの体温と馨りに包まれないと安心が出来ない。其れなのにイレヱヌはセシルと同じ様には思ってくれなかった。

「恋人になったからって急に何時も一緒に居る必要はないでしょう。友達の時はそんな必要無かったじゃないの」イレヱヌの宥める様な優しい声はセシルを絶望の淵へと突き落とすには充分だった。頭が真っ白になった。(必要無い……?僕の事が必要無いっていうの……?僕はイレヱヌが一番好きなのに。何でそんな事言うの?)

「じゃあ僕達は何のために恋人になったの!?イレヱヌは僕と一緒にいることが嫌なの!?ねえ僕はイレヱヌの事が好きだよ。イレヱヌとずっと一緒に居たいし、夜眠りにつく瞬間まで側に居たいし何度だってセックスしたいよ。イレヱヌの全部が欲しいしいし誰の物にもなって欲しくないから恋人になったのに。イレヱヌはそうは思わないの!?」反射的にセシルは大声で叫んでしまった。堪える事が出来ない。自分はこんなに大好きなのにイレヱヌは同じ様に自分を求めてくれない。その事が堪らなくセシルを苛む。泪が止まらない。両親が離婚をした時よりも、愛する母親が心を病んで病院に入院する事になった時よりも更に孤独に感じた。イレヱヌが珍しく狼狽している。(僕に何れだけ酷いことを言ったか、ちゃんと解ってよ)残酷な復讐心を交えながらセシルは泪を流し続けた。

イレヱヌは結局何故セシルが此れ程肉体関係に固執するのかまでは理解は出来てはいないらしい。そもそも自分にだってはっきりとは理解わからないのだから仕方ない。ただ、自分は何か壊れているのだろう、と客観的な視点で思うだけだ。言葉や態度よりも此の時間を過ごす方が一番相手から求められている、自分は愛されているのだと余程実感できる。(此れは僕がおかしいの?)セシルは不安になる、がずっと昔からこの価値観が植え付けられているのだから、今更変えられるとは思わない。変える必要性もセシルは感じてはいなかった。(自分を愛する人は沢山見つかる)其れを知っているセシルは変える必要性を感じなかった。此の飢えと渇きは恐らく一生悩み続ける問題になるのだろう、とセシルは諦めと共に受け入れていた。

(直ぐには無理かもしれないけど、イレヱヌにももっと僕を求めてもらえるように変わってもらえば良いんだ)セシルはそう結論づける。今まで自分の恋人達は皆そうだった。徐々にセシル無しでは居られなくなっていった。今回もそうなるのだから心配する必要は無い。セシルはそう確信した。

Lies dieses Buch weiterhin kostenlos
Code scannen, um die App herunterzuladen

Aktuellstes Kapitel

  • Iの藍色或は愛に纏わる譚   ー第4章ー 2.フランソワーズ・サガン

    イレヱヌはこの件を誰にも言うつもりは無かった。たとえエドワアドであろうとジャンヌであろうと。ましてやセシルには。あんなことがあったなどと口にすることすら屈辱的だ。そして口にしようとするだけでまた全身を蛆が這うようなおぞましい不快感を思い出してしまいそうだからだ。 「お前、モデルしてるんだってな」明くる日、サン=ポウルのビュッフェでシリルにそう声をかけられる。「うん」言葉少なにイレヱヌは返答した。なるべく考えたくは無い。この日はセシルが仏蘭西で仕事をしていた。 「大丈夫なのかよ」「大丈夫って何が」「ファッション業界がえげつない実態なことくらいは俺でも知ってるぞ」シリルの方を見ると、真剣な顔でイレヱヌの事を見詰めている。この表情で見詰められるのは“シラノ・ド・ベルジュラック”の舞台終わり以来かもしれない。 「大丈夫よ」そう言ってイレヱヌは微笑《わら》いかけた。「何かあったら絶対に誰かに言えよ。一人で抱え込むなよ」「分かってる。ありがとう」其処までシリルに心配されていたとは思わなかった。シリルが此れ程心配しているなら、両親やセシルにはもっとかもしれない。イレヱヌは周りからどう思われているのか心配になってしまった。それともシリルはまさか何かに勘づいているのだろうか、その考えが頭を過り、総毛立つ。シリルが若し勘づいてしまったとしたら、セシルに気付かれてしまうのも時間の問題だと思った。あんなこと恋人には世界一気付かれたくはない。 次の日、セシルがイレヱヌの部屋にやってきた。「久しぶりだね。イレヱヌ」気のせいか表情が堅い気がする。「久しぶりセシル。お仕事はどうだった?」イレヱヌはわざと明るい声を出した。(セシルに心配をさせないように振る舞おう)自分に言い聞かせ、紅茶を淹れようとする。 「イレヱヌ、“シェ・レジーヌ”の事どうして僕に言ってくれなかったの?」首筋から氷の塊を滑り落とされたような錯覚に陥る。「何の事……」「彼処はフランソワーズやフランソワーズの友達が良く利用してるんだよ」頭が真っ白になる。そういえば“パリ・マッチ”には頻繁にサガンとブリジット・バルドーがディスコやカジノで夜遊びする姿が載っていた。「僕は、そんなに頼りない存在なの?」はっとしてセシルの方を見ると、悲しそうな眼をしていた。ふう、と息を吐き出すと「どうしても知られたくなかったの…

  • Iの藍色或は愛に纏わる譚   ー第4章ー 1.腐った林檎達

    モデルの仕事は順調そのものだった。将来の事で散々悩んだ時期を思うと拍子抜けする程簡単だった。広告、雑誌に起用されてようやっとポージングや表情にも慣れた。ウォーキングは何度も練習をする内に服を映えつつスタイルを良く見せる歩き方というものが身に付いてきた。勉強にモデルにと忙しいため、セシルと顔を会わせる時間が減ったのが唯一残念に思う事だ。セシルも夜のキャバレーやショークラブなどで歌う事が多くなったからだ。思わずその事をセシルに話すと「僕も淋しいよ、イレヱヌ」とセシルが淋しそうに微笑んだ。 そして仕事に慣れていく内にファッション業界というものの“常識”を学んでいった。モデルなど所詮は動くマネキン。所謂“枕営業”なんて珍しくもない。体型維持のためならドラッグだって平気でやる。知れば知るほど失望の連続だった。(此れがあたしの居場所なのか……)そう落胆もするが、それでもしがみつくしかない。(だって、あたしは此れしか出来ないんだもん)ようやっと見つけた自分の居場所と言えるものだったのだから、求められる限りは此処で戦いたかった。コンプレックスの反動で半分意地になっていたかもしれない。もう先の見えない未來に鬱屈した思いを抱えるのは御免だった。 イレヱヌには理解が出来なかったが何故かデザイナーのパーティーに出席するのはこの世界では常識らしい。「どうしてもデザイナーが出席して欲しいって…。頼むよイレヱヌ」エージェントに懇願されるがイレヱヌは仕事の後はゆっくりしたい。幸運なことに今巴里にはセシルもいた。直ぐに帰ればショークラブの仕事を終えたセシルに会える筈だ。しかし、この世界ではコネクション作りのためにはそういった付き合いは必要不可欠らしい。(この世界は、腐ってる)イレヱヌは自分の居場所を唾棄した。 パーティーが終わったら直ぐにアパルトマンに戻った。どうやらディスコで二次会があるらしいが興味が無い。セシルは夜中まで仕事なのでまだいない。部屋でふう、と溜め息をつく。ようやっと人間に戻れた様な気分だった。バスタブに薔薇の馨りの入浴剤とシャワアでお湯を張って泡風呂を作る。バスタブに脚を伸ばすとメイク汚れや汗以外の汚れも落としてくれる気がした。 (今日も終わった)その安堵がイレヱヌを包む。 (あたしは後何年此の世界で生きていくのだろう)ぼんやりと頭で考えるも、先の事は全く分から

  • Iの藍色或は愛に纏わる譚   休題 Cの回想録

    ―― 休題 Cの回想録 ―― 何て腹の立つ奴だ、というのがシリルがイレヱヌに対して抱いた印象だ。 シリルは産まれながらに総てを与えられた人間だった。銀の匙を咥えて産まれた処か、しゃぶりついて産まれてきた状態だ。ベネディクト家は英吉利で旧くから存在する家柄で祖先は王族とも血縁関係にある事が実家の羊皮紙で作られた家系図のタペストリィからも確認出来る。富、名誉、地位という総ての人間が欲して止まない者を自分は産まれながらに持っている。そして、シリルは何もない、空っぽな人生を歩んでいる事も日に日に気付く事になった。 朝食を摂りに食堂に向かうとシリルだけしか居なかった。「父さん、母さんは?」シリルが生まれる前からベネディクト家に仕える執事に訊くと「旦那様は仕事に向かわれました。奥様は外にお出掛けです」と想像していた通りの答えが返ってくる。朝、部屋の窓から父親のキャデラック・フリートウッドが家の門から出るのを見た。きっと外で作った愛人の元へいそいそと向かったのだろう。おそらく母親はそろそろ酔って朝帰りをする。両手には抱えきれないほどドレスや宝飾品、毛皮があるに違いない。二人とも自分達息子には一切の興味が無い。家庭内は完全に壊れていたのに何故か両親は離婚をする事はなく、世間の目に曝される度に、立派な政治家の優しい夫と貞淑で上品な妻という偽りの姿を演じ続けた。(うちは、完全に壊れている)シリルはある時期からそう感じた。アガサ・クリスティーの“ねじれた家”と其の引用元であるマザーグースの“ねじれた男”を思い出した。 There was a crooked man, and he walked a crooked mile, ねじれた男がいて ねじれた道を一マイル歩き He found a crooked sixpence against a crooked stile; ねじれた六ペンス硬貨を ねじれた踏み段のところで見つけた He bought a crooked cat, which caught a crooked mouse, ねじれた猫を買ったら その猫がねじれた鼠をつかまえた And they all lived together in a little crooked house. そしてみんな一

  • Iの藍色或は愛に纏わる譚   ー第3章ー 4.Belle puppée

    そうこうして数日過ごしている内にパリ・プラニングから連絡が来る。早速仕事の話だった。自分は事務所に所属しているだけの素人だったのでこんなに直ぐに仕事が来るのかと驚いた。休日を使って仏蘭西に行くことが決まった。兎に角セシルから離れたい。セシルの事など考えたくも無かった。 巴里に来たのは一ヶ月も経っていない筈だが、何故か遠い昔の事に感じた。イレヱヌはマドレエヌ寺院近くのトロンシェ通りにあるパリ・プラニングのオフィスにいた。予想通りスカウトマン、社長二人ともジャンヌ、エドワアドの事を知っていた。初めての仕事は新規のブランドのイメエジ広告の撮影だった。 「まあ!写真で見るより美しいわ!若い頃のジャンヌよりも綺麗かもしれない……」案の定、ブランドのデザイナア、シルヴィ・ペロウはジャンヌの事を知っていた。赤い風車時代に衣装デザイナアをしており、其処から交遊を深めた仲らしい。「何時かイレヱヌとも仕事をしたいってジャンヌと良く話してたわ」衣装合わせをしながらシルヴィは楽しそうに話した。イレヱヌは何も言わずに微笑んだ。(あたしの人生は結局ずっと此れが続くのだろう)イレヱヌは諦観してそう思う。(でも、此れはどうすることもできないことだし。そもそもあたしの親が普通の人だったら此の仕事は貰えなかっただろうし)顔にメイクを施されながら誰に言うでもなく言い聞かせる。そして撮影が始まった。 イレヱヌの顔は普段よりさらに真っ白になっていた。まるで巴里の日曜日の蚤の市で眼にする陶器人形のような顔だ。鏡を覗き込んで思わず笑ってしまう。衣装はフープスカアトとコルセットの部分が敢えて剥き出しになったドレスだった。正面はミニドレスに見えるが後ろは裾が床を引きずる長さに作られている。足元は薄手のストッキングにガーターベルトを履いた。頭は高く盛り上げた髪型を模した鬘を被った。鬘には船の模型や駝鳥の羽根、薔薇等が付けられているため、鬘の中は空洞とはいえそれなりに重い。十八世紀の極端な華美さと、十九世紀の退廃的な雰囲気からインスピレエションを得たもののようだが、今の時代の感覚ではファッションというより身につける芸術といったものだった。撮影現場には|蚤の市《ブロカント》で見つけたと思われる巨大な全身鏡や

  • Iの藍色或は愛に纏わる譚   ー第3章ー 3.The greatest hate proceeds from the greatest love

    サン=ポウルでの学園生活が再び始まった。 旅行は楽しかったが此処に居るのも気持ちが落ち着く。 今後は学生生活を送りつつモデル活動も平行してやっていくため、学院に特別補講の申請をする。主に芸術、スポーツ、役者など外部での活動を精力的に行う生徒のための教育制度の一環だ。 校長のシャルル・ボドリィからは「モデル活動をする生徒はイレヱヌが初めてですよ」と微笑いかけられ、少し誇らしいような照れ臭いような複雑な気持ちになった。学生生活女子寮の談話室にある衝立で作られた小さなソファや卓子のある空間で小説を読んでゆっくりとしていると 「ねえイレヱヌ、春休みはセシルと旅行に行ったんだって?」と声を掛けられる。同級生のアンヌ・ベッソン、ジュリエット・サンダースだった。 「うん。オリエント急行に乗ったの」とイレヱヌは同意すると、「ええっ飛行機じゃなかったの!?」とアンヌが驚いた。オリエント急行は今は斜陽なのだから当然だ。「アガサ・クリスティの本を読んでどうしても乗ってみたくって」と云うと「良いなあ、楽しそう!」とジュリエットが目を輝かせる。「凄く楽しかったよ。インテリアは素敵だし、食事も美味しかった!あとヴェネツィアは綺麗な街だから若し行ったことがないなら一度は行くべきだと思う」とイレヱヌが力を込めて語ると二人とも興味深々で耳を傾けた。 「オリエント急行か……私は行けるかな……」とアンヌがぽつりと呟いた。とても淋しそうな顔をしている 「アンヌは行けないかもしれないの?」と不思議になり訊いてみると「私は卒業後に結婚するかもしれないから……そうなったら気軽に自由な旅行は楽しめないと思う」と言うので驚いた。「そうなの?てっきり大学進学かと思った」というイレヱヌにジュリエットが「アンヌの家は女性は学生の内に婚約、結婚するのが代々の習わしらしいの」と答える。「今時そんなことするんだって驚いちゃうよね」と肩を竦めるジュリエットに、イレヱヌも頷いて同意する。そして結婚後に其れほど自由が制限されてしまうと考えているアンヌが哀しかった。「イレヱヌが羨ましい。好きな人と恋人になって二人で旅行に行けるなんて」アンヌが哀しそうに微笑んで、ジュリエットが慰めるように腕を撫でた。自由に恋愛をして、自分の進路を進むことが此の世界では当たり前では

  • Iの藍色或は愛に纏わる譚   ー第3章ー 2.Château de Chillon

    「イレヱヌ、モデルになるんだって?フランソワーズから聞いたよ」セシルが目を輝かせながらイレヱヌに訊いてきた。もう知られているのか、と思いつつ「まだ決まった訳じゃないよ」と否定をすると「何で?勿体無いよ。イレヱヌなら絶対に成功出来るよ!」とセシルが断言した。 自分以上に自分の事をセシルが信じてくれている、という事実がイレヱヌの胸を熱くする。セルジュ・コクトオと名乗ったパリ・プラニングというモデル事務所のスカウトマンは案の定イレヱヌの母がジャンヌだと知っていた。恐らく其れも理由で声をかけたのだろう。寧ろ其れが理由かもしれない、とイレヱヌは推察した。人前で服を着て歩いたりポージングを取る仕事はマヌカンしか無いと思っていたが、現在はファッションモデルとして仕事があり、役者や歌手のように事務所に所属するのが普通ということをイレヱヌはセルジュと出会って初めて知った。時代は随分と変わったらしい。 ただしモデルの世界では180cmはあるのが普通だがイレヱヌは177cmだ。ランウェイで歩いたら相当みっともないだろう。そして両親の七光りのお陰で仕事を取っていると陰口を叩かれるのも目に見えている。「そうとは限らないよ……。ママやパパの名前が出されそうなのも厭だし」と思わず弱音を口にすると「でもイレヱヌ、其のパパやママの事を引っ括めてイレヱヌじゃないの?」セシルはイレヱヌの目を真っ直ぐに見据えながらそう言った。 「“機会が二度も扉を叩くと思うな。”って言葉知ってる?こんな機会もう来ないかも知れないよ?」セシルが真剣な顔で語りかけてきた。 (其れは間違いない)イレヱヌは勿論その事は理解っている。興味が無い訳ではない。単に自分は臆病者なだけなのだ。逃げる理由が欲しかった。「取り敢えず、パパとママに報告しなくちゃ」 「おめでとう、I。本当に凄いわ」電話越しにジャンヌの高揚が伝わってくる明るい声が聞こえた。実家に電話をしたところ、アンリエッタが電話に出た。理由を簡単に説明し両親に取り次いで欲しいと簡単に伝える。アンリエッタは「おめでとうございます。イレヱヌ様。」と言った後にジャンヌに変わった。母は何時まで経っても少女のようだった。マリリン・モンローが演じる妖艶な大人の女と無邪気な少女のような内面が同居している人間だった。 「セルジュか

Weitere Kapitel
Entdecke und lies gute Romane kostenlos
Kostenloser Zugriff auf zahlreiche Romane in der GoodNovel-App. Lade deine Lieblingsbücher herunter und lies jederzeit und überall.
Bücher in der App kostenlos lesen
CODE SCANNEN, UM IN DER APP ZU LESEN
DMCA.com Protection Status